映画レビュー:リプリー(The Talented Mr. Ripley) ~悲劇としての虚無~

こんにちは。
今回は、映画リプリーについての感想を書きたいと思います。
ネタバレはありますのでご注意ください。

私はリプリーを見た直後にこの記事を書いています。
…これは書かずにはいられませんでした。
あらすじはWikipediaに(完全なるネタバレとして)ほとんど載っていますので、書きません。

wikipedia-リプリー

点数としては、以下となりました。

① 5点(その映画の分野での評価)
② 5点(一般的な意味における「映画」での評価)
③ 見るべき

技巧として、私は素人なので適当ですが、特に気になる点はありません。
イライラするシーンや意味不明なシーンは無く、画面に映るイタリアの風景はとても美しい。
しかし、万人が楽しめる映画かというと、そうとは言えないと思います。
それはなぜかを書いて行きます。

とりあえず見終わった第一印象は、「しんどい」。
これほど見ていてしんどい映画は、なかなか無いと思います。
なぜしんどいか、それはずばり、「見ていて全く安心することが出来ない」からです。

一番安心できない原因はやはり、主人公トム・リプリーの犯罪が露見しないかどうか、
ハラハラ状態がずっと続くことです。
ある殺人がばれないように工作し、その過程でばれそうになったら次の殺人を犯す。
そして、その殺人もばれないようにさらなる工作を行う。
そしてまたばれそうになれば、さらなる殺人を犯す…。
この過程を見ているのはかなり疲れます。

そして第二に、殺される人間が、全く以って不憫。
誰も殺されるような罪を犯した人間ではありません。
皆輝くような魅力を持った人間であり、彼らが殺されていくのを見るのは苦痛でしかない。

そして第三に、かつこれが一番重要なことですが、
「トム・リプリーを犯罪者として、切り捨てることができない」のです。
たしかにトムは明らかな異常者です。
口論になり、殺す。ばれそうになったら殺す。
これは正常な精神を持っていれば出来ないことでしょう。
しかし、恐ろしいほどに空虚な、vacantな(と自分で確信している)人間が、
「太陽のように」光輝く人間と出会う。
そのとき、彼は何を思うか?

「彼になりたい。」
「彼の人生を歩みたい。」

私は、このトム・リプリーの心情がものすごくよくわかります。

今までの人生を振り返ってみて、空虚さに包まれる。
私の周りの人間は、いい人たちばかりだった。
光り輝く人間ばかりだった。
しかし、私は?
私は、なんだったのか?
私に魅力などあるのか?
私から、いったい何が生み出されたのか?
私は誰かの役に立っているのか?
私は誰から必要とされているのか?

トム・リプリーは最後に、愛するピーターにこう質問します。
「…僕のいい所を言ってくれ。」

自分は他人にとって、何かいい部分を持っているのか?
強烈に、確認したい。

そんな人間が、ディッキー・グリーンリーフのような人間に遭遇して、何を思うのか。

殺して、その人間になり代わるような芸当はできないとしても、私は、
私は、他人になりたい。
他の人間になってみたい。
他の人間の人生を歩んでみたい。
私の様な、恐ろしいほどに何も内包しない、何も生産しない人生など、一刻も早く脱出したい。
生まれ変わりたい。

そんな、トム・リプリーや、私のように、自分に何の価値も見い出せない人間は、
この映画を見ていても、主人公トムを切り捨てることが出来ず、
逮捕されろよ、と思う反面、逮捕されないでくれ、と願う。
しかし、逮捕されなかったとしても、彼はディッキーにはなれないし、
永遠なる虚無に向き合い続けるしかない。

これをずっと感じながら見るわけです。

この映画では誰も救われない。
この映画を見ても誰も救われない。

見る人を選ぶかもしれませんが、非常に良い映画でした。