歴史に興味を持った経緯

どうもこんにちは。

さて、今回は、私が歴史に興味を持った経緯を書きたいと思います。

まず、もともと私はいわゆる歴史というものに興味が全然湧いていませんでした。
過去に~という出来事があった、過去に~という人がいた。それがなんだというのでしょうか。ふ~ん、大変だったんだな、現代は楽でいいな~、という感じで終わりでした。
今考えると、歴史というものに「リアル」を感じていなかったのです。現在を生きる私という人間と、過去の日本の歴史、ましてや世界の歴史など、何のつながりも感じませんでした。つながりを感じさせるものがありませんでした。

そうして大学に入学するところまで来ました。私は浪人を経て入学しましたが、この浪人期間でかなり私の趣向が変わったと思います。というのも、大学への、というより文化的なものへの欲求が急速に高まっていたからです。
浪人時代は勉強漬けで、私は理系志望だったので猛烈に理系の教科に取り組んでいたわけですが、そこで、文系教科の授業がもはや癒しと化し始めていました。古文漢文は意味がよくわからなかったのでイマイチでしたが、現代文はかなり面白くなってきました。また、地理の授業も楽しくて仕方ありませんでした。予備校の授業というのは、高校の授業よりおもしろいことが多々あります。なにせ講師は自分の首がかかっていますから必死におもしろくしようと工夫するわけです。
ということで今まで人並みの読書量だったところが、大学入学後は貪欲に古典的文学作品を読み漁るようになりました。そういった中で、「哲学」にも接近していきました。

ところで私は書籍を買うとき、必ず著者を入念に調べてから買うようにしています。著者が学問の世界でどれだけ専門的にそれを研究したかを調べ、その人がどれだけ「本当のことを言っているのか」をチェックするのです。もちろん何が本当かなんて、とても難しいですけどね。そのうえで、残念ながら私はゴリゴリの専門書を読む技能はありませんから、その人の書いた初心者用の本を買って、読み出すわけです。
その中で、哲学に関しては「中島義道」氏に注目するに至りました。氏は東京大学で哲学の修士課程を修了していますから、学問の世界を真剣に通過した人間であることは間違いありません。また、その著書は、哲学のやや初心者向けのものから、哲学に関係の無い氏独自の思想を披瀝したもの、また、氏の自分語りをしたもの、というだいたい3種類に分けられ、特に哲学に関するものを立ち読みしたところ、初心者に迎合しない厳しい姿勢が垣間見えたので、氏の著書を買ってみることにしたわけです。
まあ今回の話の本流は哲学ではありませんから、ここでは中島義道氏には深く立ち入りません。
ということで、中島義道氏の著書を読んでいく中で、「哲学の教科書」というものを読むに至りました。この著書は、その敢えてのド直球のタイトルが鍵となっています。つまり、「うわ、哲学の教科書だ!やったー買おう!」という軽薄な人間を戒めるための罠なわけです。しかし実は結果的に、この本は哲学の教科書たりえているともいえるのですが。

私はこの本の序盤の部分に大きな影響を受けました。その内容とは、「死」です。
私はこれまで、一般人として、死を深く捉えてきませんでした。自分がいつの日かこの世界から消滅するということを、よく考えてきませんでした。
しかし、この本によって、死が、急激にリアルに私の眼前に近づいてきました。
私は愕然としました。非常にヤバいということに気がつきました。死ねばこの世界をどのようにしても見ることができなくなるのです。完全に消える。これは、あまりにも恐ろしいことです。ヤバ過ぎます。ゾッとしました。寒気がします。

この「死」が急にリアルになったとき、私の存在ごと、世界を一歩引いて、いや世界が「有と無」という枠に収まった一つの「何か」として、私の前に対象化されました。もはや、世界があって私があるというのではなく、私と同列に世界が存在している、つまり世界そのものが私の観察対象になってしまったわけです。ただの私が立つ「場」としてではなく、限られた存在である私と同様に、限られた存在としての世界。世界の全てが、「一過性」として、消えていくのです。物も、人も。
この感覚を得たとき、「歴史」というものが、とうとうリアルに、まさに「私のように」、「存在した」、というこの事実として、私に認識されました。ここに来て、歴史と私は、真の意味において接続されたと言ってもいいでしょう。
こうなると、歴史に対して、もはや驚嘆の念しか湧かなくなりました。もはやどんなことに対しても、「マジか」という、リアルさが付きまとうのです。


平泉寺白山神社の南谷発掘現場。500年ほど前、ここには僧兵八千人が暮らしていました。この道を僧兵たちが行き交い、皆それぞれの人生を懸命に生きていたのです。驚嘆するしかありません。

そして、個別に私の歴史への興味をさらに加速させたきっかけは、「刀」と「苗字」でした。
「刀」については、私は刀そのものに関心があったのではありません。数々の歴史的に重大な人間、そして現場に「居合わせていた」ということの事実、実際に~百年前のあの現場で、あの人物とともに「存在した」という事実に、驚愕したのです。これはすごいことだと思いました。これによって、「古いもの」への私の関心が劇的に増幅されたのです。
実際にかつてその場に存在した。何年もの時間を超越して、私の眼前にそれがある。これは、死を超越した、だからこそ死を意識させることなのです。
そして、「苗字」です。今まで全く意識していなかった苗字ですが、実はこれは歴史の塊といっても言いものなのでした。苗字が、人の歴史の連続性を、私に実感として与えました。苗字のすべてに、過去の人間たちのドラマが息づいているのです。これにも驚嘆するしかありません。

そして、より私の歴史に対する興味を大きくしたのは、やはり歴史上の人物の「死」でした。死を通して、全ての過去の人間たちが、私と同列に上ってくるのです。人が死ぬということ。
歴史上の人物たちが、死と隣り合わせの状況で、いかにして行動し、そしていかにして死んだのか。死を覚悟した人間の行動は、強烈にリアルな印象を私に与えるのです。


養源院。血天井は、人間の死に様を直接我々に見せつけます。

つまりまとめると、「死」を介することで、歴史の全てが「私」そして「私のいる現在」と『全く同じである』ということがわかったのです。
そうすると、あらゆる時間軸上のあらゆる人間たちの行動が、私の観察対象として、興味深くなったのでした。
なぜこんなことをしたのか、なぜこんな政治体制なのか、なぜこんな服装をしているのか、なぜこんな戦争をしたのか、なぜこんな建物をたてたのか、なぜこんな風に人は苦しみ、泣き、そして笑ったのか…。

全ての歴史が、私の隣で起きたようなものなのです。また、現在の政治問題などはもはや私の眼前で起きています。

そしていつか私も巻き込まれ当事者となり、そして、「死ぬ」覚悟を決める時が確実に来るのです。