どうもこんにちは。
さて、今回は砂の器の感想を書きたいと思います。
評価は以下の通り。
① 4点(その映画の分野での評価、満点5点)
② 5点(一般的な意味における「映画」での評価、満点5点)
③ 【見るべき】(結局、見るべきか)
さて、今回はあまり言うことはありません。
なにせ、基本的に誰が見ても名作なので。
今回は、考察です。(ネタバレ大有り)
まず、映画として単純にすばらしいと感じた。俳優も基本的に全員すばらしいというほかない。
映像も非常に美しい。特に、やはりあの親子の放浪シーンはあまりに胸に詰まった。
ただ、見ている最中から、私には引っかかり続けることがありました。おそらく皆さんも同じだと思うが、「なぜ、和賀英良は三木を殺したのか」である。これが最後に和賀の口から説明されることを期待し続けたが、それは叶わなかった。
よって、引っかかった状態で終わってしまったのだが、その後ネットの数々のレビューを見て自分なりに解釈を得ることができたので、ここに書いておきたい。ちなみにこれは私の考えであって、一般的正解とは考えていません。
また、もうすでに誰かが書いてるかもしれないし、読んでいるあなたと同じ結論かもしれない。
終わってしばらく経ってから気づいたのだが、タイトルである「砂の器」を忘れていた。砂の器。それは、水だけでなんとか砂利を結合させて作った、器のことである。砂の器。それは、水がかかった瞬間、すべてが崩壊する器です。
和賀が作曲しようとしていた「宿命」。これは、和賀の、あの絶望的なほどにつらいながらも、父親だけを愛し信じて生きたあの旅路を音楽に投影したものでした。それは、自らの境遇を客観視し、人生を切り開く決意と父親への愛だけを使って完成させようとしたものなのです。その作品に対して、今父親と直接会ってしまったらどうなるのか。そのとき、父親への愛情は爆発し、自らの境遇への客観視はできなくなるでしょう。そうです。「宿命」は、砂の器のようなものなのです。父親への愛を元に作ったものなのだが、父親への愛が大量に注がれたとき、それは崩壊してしまうのです。
そして、「宿命」とはなにか。それは、和賀英良そのものなのでした。和賀英良そのものを現す作品。
つまり、和賀英良その人自身こそが、砂の器だったのです。
これまでの過去すべてに決別し、この世に絶望し全てを突き放し、しかし音楽に活路を見出し、必死で生きてきた。その集大成が「宿命」なのでした。したがって、和賀は父親に会った瞬間、自分自身のこれまで築き上げてきたもの全てが崩壊することを知っていた。それは、あまりにも父を愛しているから。だからこそ、彼はもう、絶対に父親に会うことはできないのです。
そんななか、三木が現れた。絶対に父親に会わせるという。一度は拒否できたが、再度要求される。彼の申し出を真正面から拒否することはできない。なぜか。彼は、「完全なる善人」だからです。それは、和賀英良自身も芯から知っていたことでしょう。そして、三木自身も、この申し出の何が気に食わないのか、まったく理解できない。なぜか。「完全なる善人」だからです。
よって、なぜ和賀は三木を殺したのか。そう、和賀英良の「人生」は、もはや三木の提案(要求)から、隔絶された次元にあったのです。もう、三木の要求に従うことはあり得なかったのです。単に自分の過去を知っている人間を消したかったのでは決してない。自分の「人生」を、「宿命」を完成させるため、三木には消えてもらうほか、やりようがなかったのです。三木が純然たる善人であることから生まれた、悲劇なのでした。
ここまで考えれて、やっと私は納得しました。
いやはや、恐ろしい映画です。これは本当に、人間の、人生の、不条理、理不尽、深淵を見た(気がする)映画でした。
あの美しい風景と隔絶した、あり得ないほどの悲劇と不条理、そしてそこに同居する親子の愛。
ああ。すばらしい映画でした。